エッセイ

2023年07月19日 Wed

コラム「現代棟梁・田中文男」のこと

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日夜日本の伝統を活かした木造住宅を模索している松井郁夫です。

今回はお世話になった「田中文男」棟梁のことを書きました。

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「木造は軸組だ!」と言い放ったのは故・田中文男棟梁(1932年~2009年)です。

口伝や伝承の世界であった木造建築に科学的な検証を取り入れて「学者棟梁」と呼ばれていました。

また設計と施工を分業して工場と現場に大工職人を分けて配置するなど作業の効率化を進め、小さな住宅でも必ず施工図を描いて施工前に検討し設計と施工の誤差のない合理的な現場運営を進めたので「現代棟梁」とも呼ばれました。

「日本建築セミナー」という勉強会の講師を勤め若い設計者や大工に多くの影響を与えました。私も20代の頃セミナーに参加し大いに学ばせていただきました。

「口は出すけど金は出さない!」設計者が大嫌いで、こちらが「こんにちは!」と挨拶しても「バカヤロウ!」といきなり怒鳴られました。その訳は、日本の伝統構法は設計者である「お前らが壊したんだ!」というのです。とても怖い人でしたが、笑うと子供のような笑顔を見せてくれました。

晩年は、受講生だった私と一緒に「真の日本のすまい」という国土交通省の設計競技の審査委員を勤めさせていただきました。ご病気で亡くなる前に、「お前くらいだなぁ…俺の言ったことをやってくれているのは…。」と言われたことはとても名誉なことで嬉して、あまり人には話せませんでした。

仕事について数多くの名語録を残しています。田中文男の言葉は、厳しく、重く、温かく、深いのです。本になっているわけではないのですが名語録集はLIXILギャラリーのブックレットにあります。下の最初の写真です。

曰く「時間が欲しかったら、一度でやれ」「暮らしは下みて、仕事は上を見てやれ」「やっちゃいけないことをいくつ知ってるか」「返事は六つでいい。わかる、わからない。できる、できない。好き、嫌い」「5W1Hだけじゃないよ、3V2Sだ」5W 1Hはよく言われているように、いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どうしたのかということです。3V2Sは明確なビジョンを持ってバイタルでビビットなことをサイエンステックにセンシブにやる!ということです。…解説がないとわからない言葉ですが、実務者にとっては身につけたい貴重な語録です。

また元文化庁の宮澤智さんと書いた「普請研究」は日本の大工の技術や技能について記録解説した名著ですが、こちらはまた日を改めて描きたいと思います。

2023年05月26日 Fri

コラム「私が出版社をつくったわけ」

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いつか古民家になる、暖かくて快適な家づくりを目指している松井郁夫です。

今回は出版社をつくったいきさつをお話します。

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事務所開設以来、丈夫で快適な木組の家づくりを続けていますが、28年前の「阪神淡路大震災」の衝撃は大きく私の設計の方向を変えました。

日本の伝統的な木組の家を標榜して多くの家を作り続けいていた頃にドカンと大地震が来たのです。それまで比較的自由な間取りの木の家をつくっていた気軽な気持ちがいっぺんに吹き飛びました。40歳のときです。

日本の家は地震に強いと聞いていたにもかかわらず、多くの建物が倒壊し6434人の人が建物の下敷き人ってなくなりました。丈夫な建物をつくらなければいけないと勉強会に出たりして耐震技術を身に着けようと努力しました。

「これからの木造住宅を考える会」を立ち上げて耐震や防災の専門家の話を聞きました。その時に仲間とまとめた本が「木造住宅【私家版】仕様書」です。おかげさまで28年間ロングセラーを続けていますが、版を重ねるごとにページが増えてかなり重厚な本になってしまいました。

そこでエッセンスだけを取り出してつくったのが「初めての人にもできる!木組の家づくり絵本」です。国土交通省の実大実験にも参加しました。2007年のつくばの実験を皮切りに2008年から2011年の5年間です。

伝統構法の家を試験台の上で揺すってそのデータを元に建築基準法に位置づけるということでした。しかしながら、そこでの知見は法規に記載されたものの満足のいく流れではありませんでした。

6年間に得られた知見を元に「古民家への道」を書いて一般の方や建築関係者に知ってもらおうとしましたが、出版社が軒並み出版不況で出せないというのです。

そこで自費出版を考えましたが、それよりも自分で出版社を持つことを選びました。これからも多くの本が出したいからです。それが「ウエルパイン書店」です。

ご存知のようにウエルは井戸パインは松ですから井松書店です。(笑)

おかげさまで4年経ちましたが6冊の本が出版できました。うち2冊は写真集です。全国大工職人を取材したキンドル版もあります。「日本列島・伝統構法の旅」です。

関連の講演会も増えて今のところ売れゆきを伸ばしています。アマゾンでも買えますからどうぞポチしてください。

 

2023年04月25日 Tue

コラム「設計者と職人の協働」①

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美しくて暖かい家をつくりたいと考えている松井郁夫です。

今回は「設計者」と「職人」との協働について考えてみました。

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古くて新しい問題ですが、設計者と職人の協働はなかなかうまくいきません。

「口は出すけれどお金は出さない」という「設計者」は「職人」に嫌われています。

現場で何度も変更して平気な「設計者」はもっと嫌われます。

だいたい「職人仕事」に理解がないように思われています。

それもそのはず「職人言葉」の分からない「設計者」が多いのです。

なぜなら学校では建築設計を習っていても大工職人の仕事は習いません。

明治以来、西洋の建築学の教育を受けてきているので、日本の家づくりに縁が浅いのです。本来は日本建築の源流である「民家」から学んでいなければならないのですが。

文明開化当時の日本は「西欧化」を急ぐあまり海外の技術を取り込む教育に舵を切りました。あまりにも身近で普通であったために、それまでの大工職人の技術を積極的に評価しようとしてこなかったのです。

日本の大学の建築教育では大工に教えを乞うことはしないで外国から建築家をまねいて市庁舎や学校を建てました。

それでも大工職人は古くからの技術を「徒弟」の社会で口伝により最近まで手仕事の技術として生きてきました。いまではその「徒弟制度」もなくなり「プレカット」という機械が木材を刻む時代になりました。

ますます「設計者と職人の協働」の機会は減りました。いずれは「設計者」も「職人」もいなくなるかもしれません。

すでに「2001年宇宙への旅」に描かれたコンピュータの「ハル」が生活を支配する時代が来ているのでしょう。AIが人の質問に答える「チャットGTP」の時代ですから…。

「設計者と職人の協働」によって「豊かな住まいをつくろう!」という話をしようとしていましたが何やらあらぬ方に矛先が向かいました……(汗) 続きは後ほど…   

 

2022年06月10日 Fri

追悼「木組のモダニスト・小川行夫」

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「お前なんか、中年モンだ!」「モノになんねぇから、帰れ、帰れ!」

26歳になったばかりの自分がまさか、「中年モン」と言われるとは思いもよらなかったので、酷い!と思って必死で食い下がったことを昨日のことのように覚えています。

「建築家・小川行夫」のことを知る人は少ないと思います。妻の実家を設計した元大工棟梁で建築家協会会員の「建築家」です。

「都市計画」に夢を抱いて藤本昌也先生の「現代計画研究所」に在籍していた頃、一軒でも手仕事の家を設計したかった私が訪ねていった時の話です。大工の世界では、中年モンは18歳からを言うようです! 弟子は従順な若い頃まで、と言う意味のようです。

当時から金物を使わない伝統的な木組の木造住宅を設計する建築家・小川行夫は「知る人ぞ知る」存在だったと思います。

元施主で義父の脚本家「須藤出穂」に無理を言ってもらい、世田谷の若林にあった、木造二階建ての古い裁縫教室だった事務所に通いました。

とは言っても、一年半で辞めさせられました。「生意気だ」というのが理由だったことは、私の独立後に届いた手紙に書いてありました。つまり「破門状」です。

私としては独立したばかりで仕事が面白くてしょうがない頃のことで、なぜ「破門状」が届いたのかわかりませんでしたが、妻は「額に入れて飾っておけば」と気がついていました。

当時、雑誌に取り上げられて調子に乗っていた私が経歴に小川行夫を「元・大工棟梁」と書いたことが逆鱗に触れたのです。小川行夫いわく「オレは建築家だ!」

慌てた私は「僕は大工棟梁を尊敬しています!」と手紙を書いたのですが、後の祭りでした。小川事務所に在籍した経歴は削除するように言われました。

今も一年半の経歴は白紙です…。しかしながら、その一年半は、私にとっては貴重な時間でした。

毎晩、ウイスキーを飲みながら語ってくれた大工言葉の奥の深いこと。「お前は内弟子だから教えてやる」という職人の「符牒」はまるで外国語でしたが、知れば知るほど木造建築がよく見えて理解出来ました。

スポンジが水を吸うように木造建築の「コンコンチキ」を学ぶことが出来て、今では感謝でいっぱいです。

面白いのは、三年に一軒しか建てていなかった人ですが、日本の伝統を知りながら「アメリカのバーン(納屋)をつくるんだ」と言ってバタ臭い家を設計していたことです。「木組のモダニムズ」と呼んでいます。

ある日、「木造建築の構造設計をデキる人はいないのか?」と聞かれて、現代計画時代に都市計画室の若造に建築の手ほどきしてくれた「山辺豊彦」さんを紹介しました。

あまりの個性の強さに山辺さんも最初は戸惑っていたようですが、そのうち仲良くなって、当時では珍しかった木造住宅の構造計算をやってくれるようになりました。

「ヤマベの木構造」誕生の秘話です。

ずっと破門されていたので、私から「小川行夫」を語ることは出来ませんでしたが、今日、亡くなっていたことがわかり、筆を執りました…。

享年89歳。静かな最期だったと聞きます。日本の木造建築の木組の伝統を継承した、数少ない大工棟梁で建築家でモダニストだったと思います…。

小川さん、安らかにお休みください。今夜は妻と小川さんの大好きだったお酒で献杯します…。そちらでも、出穂さんとパイイチやってください…合掌…。

下の写真は、代表作「西荻の家」わたくしの義叔父の家です。現存していませんが、この家を見て木組の世界に魅了されました。小川行夫28歳の時の作品です。

 

2022年04月16日 Sat

エッセイ「木造住宅の真実」

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「木造住宅」は、いつの間にか「骨組み」を語らなくなりました…。

最近の木の家づくりの傾向は「大壁」と言われる「柱」や「梁」を見せないで造る方法が主流になったのです。

白い壁に白い天井の箱のような家です。骨組みは、壁の中で構造の美しさを見せることもなく封じ込められています。

一方、美しい架構である「柱」も「梁」も見せていた「真壁」と言われるつくり方は、日本の伝統的な建て方でしたが、いまでは過去のものになってしまったのでしょうか?

「木造住宅」の工法的な名称は「軸組工法」です。つまり「軸」となる「柱」や「梁」で骨組みをつくることです。

古来より日本では、「杉」「桧」などの木が多く生えていたために、その直材の長所を使って「軸」どうしを「組む」ことで社寺などの水平垂直の構成美の「木造建築」を造ってきました。それが日本の伝統的な家づくりでもありました。

気候的に湿度の高い日本では、木材を現しで使うことは、素材の乾燥のためにも大切であったと考えられます。木を壁の中に入れてしまうと中で蒸れるからです。

しかしプレカットの登場によって、金物を使う工法が一般的になったために、金物を隠す必要が生まれ「大壁」が主流になってきました。その結果、金物を必要としない「継手・仕口」などの加工をする職人の手仕事が追いやられてしまったのです。

建築もいずれ3Dプリンターによる家造りも可能になるでしょうが、その時の工法は金物もいらない粘土を削ったような建物になるでしょう。

そこまでいかなくても、木材は建築の「みらい」を考えるときに、かけがいのない素晴らしい素材といえます。木材は植えて育てれば無限の資材となり、木は植林しながら利用することで山の環境保全にもつながるのです。

さらに樹木は、空気中の二酸化炭素を酸素に変える「光合成」を繰り返し、地球を守り環境を整え生物の命の要となる植物です。

この優れた素材と共存することが人類にとっても、地球にとっても欠かせない大切なことだと考えます。

最近の設計で想うことです…。

2021年12月02日 Thu

エッセイ 「成熟した社会を目指して」

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歴史的な町並みの落ち着いた城下町で育ったせいか、重厚な古い家の連なる町並みに癒やされる。狭い路地や用水路の脇の洗い場の日陰に静寂を感じる。

幼い頃に遊んだ薄暗いお寺の境内や、神社の深い森の緑を見ると敬虔な気持ちが湧いてくる。

そんな故郷が、いまでは広い道路と明るい色の家々が立ち並ぶ、なんとも居住まいの悪い町になってしまった。

かつての家々は、黒々とした太い無垢の木で陰影の深いしっとりとした趣であった。季節がめぐると表情を変える町並みと祭りの喧騒が一年の生活に彩りをもたらしていた。

暑い夏も雪のふる冬も、住人は穏やかに一年を送った。むかしからの生活を同じように飽きもせず、ずっと繰り返すように。家族は年寄りも幼子も一緒に暮らし、和やかで、にぎやかな日常を楽しんでいる。

家族の暮らしは、嵐の夜も、病める日も丈夫な家が守ってくれる。安心と安全は地域のつながりが約束してくれる。

町内に住んでいる職人たちは、心強い知恵と工夫の持ち主だ。何か困ったことがあれば、顔見知りの友だちがやってきて解決してくれる。

どんな職業についているとしても、外面の体裁や見かけにこだわることもなく、のびのびと暮らすことができる町、そんな生活ができる、幸せな社会を目指したいと思う。

そこに流れる時間はゆっくりと、まるで、熟した果実が成るように豊かさに満ちている。

日々の設計の中で、想うこと…。

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