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2024年07月15日 Mon

「住宅貧乏物語」

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今回は松井郁夫事務所の家づくりに対する「使命感」について書きました。

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いま、わたしたちの周りに建っている住宅は、美しい家といえるのでしょうか?

残念ながら「美の規定」のない現行の「建築基準法」に従っているだけでは建物も町並みも美しくはなりません。

むしろ基準法の第一条「目的」には「最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り…」とありますから「最低の基準」で建てられた貧相な建物が並んでいると言っても過言ではありません。

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学生の頃読んだ「住宅貧乏物語」早川和男(1979年岩波書店)は基本的人権である生存基盤や都市環境の整備が欧米に比べて大きく劣っていることを指摘した衝撃の書でした。

 

日本は第二次大戦後に焼け野原になった国土の復興を急ぐため、そのほとんどが「チープ」な安物の住宅です。屋根や外壁は波板鉄板、木材不足から柱は4寸に満たない3寸5分の細い柱。「胴差」までも3寸5分の細さで肝心の接合部は、羽子板ボルトのみ。雨露がしのげれば良い程度の「バラック」同然の建物であったのです。ここに戦後から続く庶民の住宅の「貧乏物語」が始まります。

 

そこで昭和25年の建築基準法制定時には戦後「バラック」の一掃を目指し、ボトムアップ(底上げ政策)を図ることとして、もともと日本にあった「在来」の工法が法制化されたのだといいます。

 

建築基準法制定時を知る故・内田祥哉先生から生前の「日本建築セミナー」で伺った話では、当時の内務省では「庶民の家は金物で縛ればよい」「文化財には伝統的な【継手・仕口】を使えば良い」という気分であったといいます。

 

なんとも悲しい話ですが、それでも市井の大工職人たちはそれには納得できず、自分たちのプライドにかけても【継手・仕口】の技術を口伝で伝承してきました。

しかし高度成長期に入ると、国の「持ち家政策」に押されて「住宅メーカー」が現れ、木造住宅にもさまざまな新工法が開発されて、ますます混乱を極めていきました。そんな背景の中、現在、戦後の建物を建て替えもしくは改修する時期を迎えてしまったのです。戦後の復興住宅である貧相な家を改修せざるを得ないという不幸な時代を迎えたのです。

わたくしは大学進学で上京した時、あまりにも東京の住宅事情が貧相で驚きました。建物は弱々しくて汚く、町並みは「おもちゃ箱」をひっくり返したように混乱していました。

歴史的な町並みの残る美しい城下町に生まれ育ったわたくしにとっては、伝統の蓄積の希薄な都市はまさにコンクリートジャングルで貧相な家が建ち並ぶカオスでした。

そんな問題意識を抱えて、大学はデザイン科に席を置き建築科ではありませんでしたが、建築の研究室に出入りして「町並み保存運動」にのめり込みました。

 

全国の美しい歴史的な町並みを回るうちに、一軒でも歴史的な民家を残さなければならないという「使命感」に燃えました。修了後には都市計画事務所に入りまちづくりを学び、その後に大工棟梁の門を叩いて伝統の「木組」を学ぶ道を選びました。

 

そこで「古民家」や「伝統家屋」の美しさと優れた環境適応性を知りました。

伝統的な古民家ならば、立派な柱や梁も残っていて「継手・仕口」を外すことで改修や再生は容易にできます。

もともと「伝統構法」とは「再生機構」を持っていたのです。組んでは外すことができる「木組」の技術がそのことを可能にしています。

 

ですから新築の家は「いつか古民家になる」ような丈夫で長く使える快適な家を目指して「むかしといまをみらいにつなぐ」ことをテーゼに「木組の家」づくりを実践しています。

さらに2003年に始めた「木組のデザインゼミナール」は「木組の家」の設計や「古民家再生」の要請に応えるための実践と、技術者を育成する場として20年間活動しています。

これからも国産材による手仕事の家づくりを進めてゆくことがわたくしの「使命」だと考えています。どうぞご期待ください。