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2024年09月20日 Fri

我が師「小川行夫」のことを話そう④

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小川行夫はカミさんの家を28歳のときに設計したといいます。カミさんの父親は「バス通り裏」「天と地」などのNHKのドラマの脚本を手掛けたシナリオライターだったのですが、小川さんの父親が「詩人」だったので文学を通して交流があったようです。戦時中はスパイとしてモンゴルに派遣されるのですが、どうやら家にお金をいれることなくモンゴルのヤギ酒「パイカル」を飲んでばかりいたようです。日本に帰って来ても、働かないでよく義父の家に来てはゴロゴロしていたようです。小川さんの母親はモンゴルから送られてきた亭主の葉書に「行夫が大きくなったら一緒にパイカルを飲みたいなぁ」と書かれたのを見て激怒して、破いて捨てたとか…。

小川行夫の事務所に入所することを進めてくれた義父は「つまらない事務所に行くよりずっと面白いよ」と言ってわたしを紹介しました。今思うと無責任だと思います(笑)

そういう義父の家づくりにまつわる小川行夫の武勇伝はたくさんあります。

まず建前の次の日に建て方をやり直したといいます。その時の大工が3メータの柱材をもったいから切らずに使ったので階高が設計より高くなったのです。小川さんは建てたばかりの骨組を壊してまたやり直したとか、階段の納まりが気に入らないからと大工のノコギリを奪って自分で作り変えたとか…もと大工ですから…。

小川さんの偏屈さは親戚中に知れ渡っており、後で聞いた話ではカミさんのまわりでは松井が本当に務まるのだろうかと心配したようです。みなさんの期待どおり、1年半しか務まらなかったのですが、なぜか親戚中から「よくがまんした!」と褒められました。(笑)

一年間はかなり小言を言われましが、あとの半年は口を利いてくれませんでした。生意気で納得しないと生返事をしてかなり反抗的だったようです。

「やめたい」と切り出したときには嬉しそうに「最後にオマエに言っておくことがある!」「親方がカラスは白いと言ったら、白いんだ!」と怒鳴られました。こちらは「何いってんだ!カラスは黒いや!」と思って辞めてきました。また無職だ…。(汗)

1年半でしたがいろいろな経験をさせてもらいました。最初はRCの二世帯住宅の基本設計。これは建主に褒められたのですが、小川さんにはそれが気に入らなかったようです。悔し紛れに「RCは雌型にセメントを流すだけだから簡単なんだ!」と言っておりました。

木造には携わらせてもらえず、習うこともなく、建て方の見学だけが勉強になりました。何しろ木造の世界を初めて見たわけですから、スポンジが水を吸うように吸収しました。それでも最後まで図面は描かせてくれませんでした。時折打ち合わせに来る外弟子がいて描いてしまうのです。職人も事務所に呼んで打ち合わせていました。そのときは「ビンタ伸ばし」とか「ひかり付け」とかいう意味不明な言葉に耳をそば立てて聞いていました。

それでもわからないところは夕方になると必ず晩酌を始めるので、いい機嫌の時に質問してメモしました。いろいろ聞くと「しょうがねぇなぁ。内弟子だから教えてやるか!」と教えてくれましたが、その解説がまたわからない?それで翌日聞いてまたメモする、また飲ませる、また聞くの繰り返しです。短い間でしたがわたしにとっては貴重な学びの場で「小川塾」でした。

(つづく)

本間家は誰も茶道をやらないんですがね…。最後は納戸になってました。