プロジェクトレポート
2024年11月14日 Thu
「民家型構法」という木造住宅の構法が取り沙汰されたのは、今から39年前になります。
1985年に当時の建設省が主催した木造住宅のコンペに当選したのが「民家型構法の家」でした。
わたくしの師匠である「藤本昌也」先生の「現代計画研究所」と「棟梁・田中文男」の「真木建設」による協働の応募でした。
当選した家は「晴海の住宅展示場」で実物を建てることになって、話題を呼びました。
なにしろプレハブ化の波が押し寄せている最中に無垢の木で手刻みによる伝統構法の家が当選したのです。
当時わたしは「現代計画研究所」で都市計画を担当していましたので直接は関わっていませんでした。
しかし退職後に縁あって大工棟梁で建築家の「小川行夫」さんのところに入所したので、必然的に「木組の家」を造ることになりました。
そのあたりの経緯を知らない人は、「現代計画研究所」出身なので「民家型構法」をやっていると言われますが、実はこのブログにも書きましたが、木造建築のすべては「小川行夫」に学びました。小川さんは町場の大工であったので、当然のように庶民の家である「民家」を造るわけです。
実は「民家型構法」には命名の秘話があります。
「田中文男棟梁」と「藤本昌也」先生が知り合ったのは、たしか東大の「太田博太郎」先生の引き合いだったと聞いています。
当時藤本先生は、青山に洋菓子の本店「ヨックモック」ビルを建ていました。その時に社長の自宅を木造で依頼されたのです。しかし「現代計画研究所」ではRCの共同住宅が主であったため木造の大工を知らなかったので、「都市計画」の講義に出向していた東大で「木造の大工を知らないか」と尋ねたところ、太田先生が文化財の修復を手掛けていた「田中文男棟梁」を紹介されたようです。
その棟梁の伝統的な家づくりを見た藤本先生がこれは「民家型」だと命名して雑誌に発表したので「民家型構法」の呼称になりました。
藤本先生は木造にとても熱心に取り組んでいました。「削った材料がそのまま仕上げになる」ことが新鮮だったようです。
わたくしが退職して大工のところに再就職するのを祝ってっくれた席で「大工仕事はすごいなぁ!」と感心しながら嬉しそうに話してくださったのを覚えています。