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見学会 木の家 内覧会 構造 木組 200年住宅 長期優良住宅 | 松井郁夫建築設計事務所「木組の家づくり」

2024年10月11日 Fri

建築の話をしよう⑦「美しい」をつくる

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建物を造る目的には「美しい」を実現することが含まれています。

どんなに機能や性能が良くても美しくないものは支持されないばかりか残りません。

では「美しい」はどうすれば表現できるのでしょう。

装飾性や精神性も大切ですが、ここでは作図の時に考える「比率」についてお話させてください。

「比率」とは「プロポーション」のことをいいます。

美しい「プロポーション」といえば「スタイル」のことを思い浮かべますが、建築の場合も同じです。

外観の「プロポーション」などは重要な「美」の要素です。

ところが「空間」という掴みどころのないものに対しては、どのように美しさを表現すれば良いのでしょう。

建築にはその構成要素として「床」「壁」「天井」がありますからそれらで囲まれた「部屋」の形を「空間」と捉えることができます。

「間取り」と言われる部屋や廊下などの配置も「空間」です。

設計者は敷地を読み込み、建物の配置を決めますが、敷地の形はもちろん、太陽の位置や風向きによっても配置や「間取り」は決まります。

ここでは「壁」で囲われる「空間」の形の「プロポーション」にも留意しなけばなりません。

部屋は四角い矩形ですが、漫然と四角いだけではいけません。それが良い形をしているのかどうかが問題です。

日本の場合、寸法の体系が畳の大きさを基準にした「ヒューマンスケール」の「尺寸」で決まっているので、あまり部屋の「プロポーション」を気遣いません。

しかし石で囲まれた西洋の家などは厚い壁と壁に囲まれた部屋に基準になる寸法があったとは考えられません。

西欧の部屋は単一機能ですから、寝室などはベッドの大きさや家具のは位置で必要な寸法を決めたのでしょう。

部屋の大きさは機能に従うことはもちろんですが、形は「美しいプロポーション」で決めることがいいと思います。

配置もまた「美しさ」が必要だ思います。

部屋は矩形の集まりですか、「幾何形体」の集合体の美しさを検討して決めるようにしています。

「形の良い部屋を形の良い廊下でつなぎ形の良い平面図」を造るように心がけているのです。

柱や梁の部材の寸法も「比率」の良い「縦横比」を採用するようにしています。

柱や梁がすべて見える「真壁」構造ですからその「断面」も美しくしたいのです。

「断面」は構造的に必要な寸法であることはもちろんですが、柱や梁の配置にも美しさを求めます。

つまり「美しい部材の集まりが、美しい部屋を作り、美しい家になる」と考えています。

民芸の創始者・柳宗悦は工芸品に「用と美」を求めました。

建築も「用の美」です。建築の「美」の探求にはそ部材の寸法の「プロポーション」までを含めたいのです。

2024年10月09日 Wed

建築の話をしよう⑥「歴史的視座」を持つ

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建築の設計者は建物を考えるときに「歴史」を考慮しているだろうか?

敷地の大きさや形状、オーナーの要望に応えることや新しいデザインを生むことが精一杯で、現代の建物がどういった歴史的な背景のもとに成り立っているかどうかは考えないでいるかもしれない。

前回のブログで考察したように「構法の変遷」はまさに構造の歴史であり、時代とともに価値観が変化してきている。

自らが造っている建築が「西欧化」されて純粋の日本の伝統からかけ離れていることには興味がないのかもしれないが、建築の歴史を考えることは真実に迫る「視座」だと思う。

一般的には設計者は、建築士の資格を与えてくれている国土交通省の意向に叶えばそれで良しとしているのではないか?

しかしそれもまた為政者の意向であり、このブログで繰り返し述べるように「真実」からかけ離れているかもしれない。

ここまで書くと「体制」に逆らっているように受け取られるかもしれないが、「体制」もまた変化するものであろう、大切なのは「不易と流行」にあるような時代に流されることのない変わらず揺るぎない「真実」を探しだすことだと考えている。

18歳の年の差のあるわたくしを親友と呼んでくれる敬愛する「岩崎駿介」さんは自力建設で自邸「落日荘」を建て建築学会賞を受賞した人だが「人は真実から逃げたがる。」と看破している。

しかし「真実」に沿わなければ足元をすくわれるのも事実だ。では建築に「真実」を求めるにはどのようなアプローチがあるのか?

「素材」があり「構法」があり「空間」をつくり「生活」を支えるための建築は「時間」もまた「真実」を創り出す重要な要素であると思う。

一軒の家を建てるときでも「歴史的視座」を忘れず、その地域やその家にまつわる「地域的脈絡」も考え反映させるべきであろう。

わたしたち設計者は、依頼者の要望を聞く前から「社会的責任」を負っている「真実の探求者」であると思うから…。

「落日荘」 地元の蔵からヒントを得たという

 

 

2024年10月08日 Tue

建築の話をしょう⑤「構法の変遷」架構の西欧化

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現在わたしたちが住んでいる家は本当に日本建築と言えるのでしょうか?

おそらくそんなことを考えずに、当たり前に住宅を楽しんでいる方がほとんどだと思います。

また現状の町並みや景観についても、現状に疑問をいだいている人も少ないでしょう。

いまや日本中にさまざまな外観の家が建ち並び、町が混然としていることが当たり前になっているからです。

でも歴史的な町並みの残る「伝統的建物群保存地域」に行くと日本らしさを感じて落ち着いた気持ちになることはありませんか?

古い町並みや家屋は癒やしになりますが、日頃目にしている町並みや家がなんとなく気持ちを「ざわつかせ」ていることに気づきませんか?

実は、いまわたしたちの暮らしの舞台となっている生活環境は、歴史的分断をおこして現在に至っているのです。

時代的に言えば、日本は「明治維新」で急速に西欧化したことが大きな原因で、分断を生んでいるのです。

それは木造住宅の「構法の変遷」を見るとよくわかります。

ここに日本の「木造住宅の構法の変遷」を図にしました。

この図からは、明治維新で江戸時代以前から続く日本人の伝統的な生活や文化が大きく変化したことがわかります。

日本は明治時代になるまで300年もの間「鎖国」をしていたので、西欧の影響を受けずに独自の建築文化を継続し、日本の伝統を受け継いできました。

ところが明治24年の「濃尾地震」を契機に、地震調査を行った「お雇い外国人建築家」によって西欧の力学にシフトしていきます。

「木造軸組構法の近代化」(2009年発行・中央公論美術出版・源愛日児著)によれば、「筋違」や「土台」「胴差」などの部材は江戸時代にはありませんでした。

地震国日本において「粘り強く」繰り返しの地震にも「復元力」を発揮する、最も重要な耐震要素の「貫」は壁の中で筋違と競合して衰退していきました。

1950年(昭和25年)に「筋違」がの築基準法に位置づけられたため、現在わたしたちの住んでいる住宅は「日本の家」というより西欧化した「和洋折衷」の家となったのです。

最近、地震被害のたびに一階が潰れて二階が道路に落ちている写真を見かけますが、これは「筋違」が圧縮側に働いて「胴差」を押し「通し柱」を折ってしまうからなのです。

2007年から2011年までおこなわれた国土交通省による「伝統的日本家屋の実大実証実験」によって明らかにされております。

もう一度粘り強く地震に耐え復元力を発揮する「貫」を見直さなければならないと思います。

 

2024年10月07日 Mon

建築の話をしよう④FBは「むかし」を見せてくれる

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この家は事務所を開設して2軒目の「木組の家」です。34年の月日が経ってしましましたが、FBは時折、昔の仕事の写真を再アップしてくれます。

当時わたくしは35歳で経験も浅かったのですが、一軒目の家の木材を用意してもらった隣の材木屋さんの紹介で建てさせていただきました。材木屋いわく「売るほどあるから、たくさん木を使ってくれ!」ということで江古田駅の近くに建っています。

敷地の選定からご一緒して選んだ路地状の土地ですが広さが気にって購入し「コートハウス」を建てました。

学生の頃から敬愛していた「西澤文隆」さんの本「コートハウス論」を読んで中庭を囲む家に憧れていたので2軒目で願いが叶いました。

オーナーは洋風の家を望まれていましたが、「洋でも和でもないモダンな家」を造りたいとお願いして了解してもらいました。

現在はオーナーも変わってしまいましたがまだまだ健在です。先程も久しぶりに外から覗いてきました。

二階が一階よりせり出している「せがい造り」です。「せがい」は船の甲板を梁で伸ばして荷物をたくさん積めるようにする工夫です。

当時「故・吉田桂二先生」と町並み保存運動をしていた時で、中山道沿いの宿場町「大平宿」の旅籠の架構の惚れ込んで採用しました。

どちらかというと富裕層の家です。二軒目にして規模が大きくて費用の潤沢な仕事に恵まれました。

この頃から日本の「民家」の架構を新築でも試すことを覚えました。

この後設計の方針として「民家」のような庶民の家を目指し始めたので、いまはサラリーマンの家が多くて建設費には苦労しており、事務所を圧迫しています。

どうやら事務所経営の才能がなくて仕事の舵を切りそこねたようです。(笑)

しかし現代の木造住宅の「質の向上」を志すと、むかしの「民家の造り方」に還っていきます。

当事務所が「むかしといまをみらいにつなぐ」という目標を掲げているのも本格的な「木組の家」を一般な家として普及させたいという気持ちの現われです。

最近は建設費の高騰でなかなか思ったようにいかないのが悩みです。(涙)

黒御影石を床に張った広い玄感

せり出した二階の「せがい」から中庭を見る

 

2024年10月05日 Sat

建築の話をしょう③「軸組ってなに?」

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木造の建物の骨組みは、大切です。骨格を作る重要な構造を「架構」と呼びます。

通常は、柱や梁などの主要な構造材は無垢の木でできています。

木の部材は一本一本が軸状になるので、その軸を組みを「木造軸組工法」と呼びます。

軸状の材料は組み上げれば立体になりますが、棒状のままだとトラックの荷台に積む事ができます。

木造軸組の歴史は長く法隆寺の昔に中国から伝えられた建築技術です。

木と木を組むにはその接合部に「継手・仕口」と言われる加工が必要になります。

「継手」とは手と手を握手するように長手方向につなぐことで「仕口」とは腕を横から掴むように直角方向につなぐことをいいます。

金物がなかった頃に接合部を堅固に結ぶ工夫を重ねてできた加工技術で、伝統的な工法には欠かせない技術です。

30年ほど前から木造の家は「プレカット」でつくるようになって今では伝統的な「継手・仕口」はなかなか見ることができません。

伝統構法の優れたところは接合部を固くつなぐのではなく、木材の「めり込み」と「摩擦」を利用して多少の粘りや滑りを許容します。

金物で固く締め付けた接合部の工法との違いは、地震や台風のときに「強度」で対抗するのではなく、力をいなして「減衰」することで建物を守ります。

金物が木より強くて母材を壊してしまうことがあるからです。「豆腐を針金で釣ってはいけない」とむかしからの大工職人の忠告です。

また全ての構造材を見せる「真壁」工法が架構を美しくダイナミックに見せてくれます。

壁は「土壁」が本来です。柱と柱を貫く「貫」に竹を網状に組んだ「小舞下地」に縄を巻いて土をつけます。

「貫」は壁の中に入って見えなくなりますが、重要な「構造材」で、繰り返しの地震の揺れにたいして復元力を発揮して、建物の倒壊を防ぎます。

「貫」は明治24年の「濃尾地震」以降に西欧から「筋違」が導入されたため、壁の中で部材同士が競合して衰退しました。

最近では地震のたびに耐震構造として「筋違」を入れるように推奨されていますが、場合によっては梁を押し上げる斜め材として働き建物を壊すような悪さをします。

地震後に一階が潰れて二階が道路に落ちている写真をよく見かけますが、筋違が胴差しを押して柱を折ってしまったのです。

2007年から2011年まで行われた国土交通省による実大実験の試験体はわたくしが設計したのですが、実験では「貫」による復元力が確認されました。「貫」は「やめてはいけない部材」なのです。

それでも永田町は建築基準法を変えませんでした。

「架構」は「貫」と「足固め」と「折置組」でつくるようにすれば、今よりは地震に耐える「軸組」が出来るのですが…。

つくば防災研究所の反力壁から押す実験 30センチ傾けると胴差がすべての柱を折る

つくばの実験 貫が復元力を発揮して繰り返しの揺れにも倒壊しない「貫をやめてはいけなかった」

 

2024年10月03日 Thu

建築の話をしょう②「家ってなに?」

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人は一人では生きていけない動物だと言います。だから「群れ」で行動するのだと。

「群れ」をつくって生きていくということは、つまり「社会」をつくることと同意義です。

「社会」で生きていくには、人は勝手な行動は慎み、集団のルールに沿って行動しなければなりません。

また「社会」の最小単位は「家族」です。

「家族」が集まって住む場所が「家」です。「家」は雨風を凌ぐ屋根や壁が必要です。

太古の昔「洞窟」に暮らした原人たちは「狩猟生活」から「農耕生活」に移行し「草原」に出てきました。明るい空の下は開放的ですが危険もあったのです。天候ももちろんですが危害を加える獣にも備える必要が出てきました。

そこで身近にある草で屋根や壁を葺き身を守る小屋を作って住み始めました。沖縄では小屋づくりを「アナヤー」と呼んで相互互助で造ったのが始まりだと言われています。柱に貫穴が空いていたのでしょうか?

家の原点は「竪穴式住居」と言われています。地面を少し掘り下げた竪穴に4本の叉木を立てて柱とし中心に囲炉裏を切って暖を取り、食べ物の煮炊きをして、寝起きもしました。

一つの竪穴式住居にひと家族が住み、いくつかの住居が集まって集落をつくり「共同生活」をしていました。その頃の住居に個室があったかどうかはわかりませんが、家族が増えるとともに家も大型化し個人の空間も必要になっていったのだと思います。

「家族」は「個人」から成り立っています。現代の住まいは「個人」と「家族」の空間を分離する事になっています。「プライバシー」と「コミュニテー」の区分です。

一人の生活を大切にすることは「人格」の形成にもつながります。

「プライバシー」と「コミュニティ」のバランスを取ることが「家」が人格形成の「場」と呼ばれる所以です。

家族を構成する「個人」「個人」が一つの家に住み合うことによって「絆」が強くなり「家族団欒」が生まれるのでしょう。

住まいの設計では「個人」と「家族」の緩やかな結びつきを促す「仕組み」づくりが肝心なのだと思います。

「居間」を造ったからみんながつまり団欒が生まれるとは限りません。

いきすぎた「個室」は孤独な「孤室」を造ってしまうかもしれません。

ひとりを感じながらどこかで家族とつながっている。そんな間取りや家具配置が「住み合う」「家」には大切です。

 

2024年10月02日 Wed

建築の話をしよう①「設計者ってなに?」

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昨日も設計の依頼が来た。嬉しい。建築の設計は楽しい。最初のスケッが最高にスリリングだ。

与えられた条件を読み込み、敷地を見に行けば、自然と建物の姿が浮かんでくる。

事務所を始めて40年。毎回依頼内容を整理すると、姿が見えてくる。間取りや断面構成も3Dのイメージがボンヤリと頭に浮かんで、だんだんはっきりしてくるそのイメージが逃げないうちに紙に描く。

設計は最初のインスピレーションが大切。浮かんだ映像が消えないうちに鉛筆を走らせる。

インスピレーションは突然舞い降りてくるので、早く捕まえないと遠くに行ってしまう、今を逃すともう二度と降りてこないのではないかと焦る。

急いででアイディアスケッチを描く。手が早いので、もっと考えたほうがいいという忠告もあるが、自分の手は止まらない。

それでも一晩くらいは「寝かせて」オーナーに見せることにしている。早すぎては有り難みがない?(笑)しかし自分の能力の優れたところは「条件」整理の速さであるので時間をかけても答えは同じ。他の設計者も同じようにイメージが逃げないうちに早く描くのであろうか?

設計は「交通整理」に似ている。オーナーのさまざまな要望に道筋をつけるのは慣れてくるとそう難しいことではない。むしろルーティンになってしまうのが怖い。

ところで設計者という職業はいつから現れたのであろうか?日本の場合江戸時代までは大工棟梁が設計も施工も兼ねていたので設計者はいない。明治になって西欧の建築が入ってきて「職能」としての設計者が現れたようだ。

では西欧での設計者の出現はいつだろうか?

「告示録」という本がある。早稲田大学の教授だった「吉阪隆正」の名著である。学生運動が盛んな頃に書かれた学生と教授との対話集のような本だが、この中に出てくる「生命の曼荼羅」が面白い。設計者の思考を渦巻きにして見せてくれている。

ギリシャ時代「アルキテクトン」とは建築家のことであり「おせっかいやき」という意味であったという。職人とオーナーの間でおせっかいにも口出しをして質を高めようと努力したらしい。

現代のAIによる概要では「建築家とは、建築の設計や監理、その他建築関連業務を担うプロフェッショナルサービスを提供する職業」「建築家の仕事は、単に建物を設計するだけではなく、芸術的感性に基づく創造行為として業務を行うことなどに建築士との違いがあります。

建築家は、建物をつくるという行為の上位に、「人が幸せに過ごせる時間と空間をつくる」という目的を掲げています」どうやら設計者と建築家は少し違うようだ。

ただし「与えられた土地に対してどのような建物を建てるか、造形や構造を検討しながらデザインし図面を描く。法律に従い安全な建物を設計する。

新しい時代に合ったライフスタイルを考えたり、空間を活かす時間の使い方も含めてデザインしたりする。地域の人たちに空間への親しみや愛着を持ってもらったりする。」などの「社会的責任」が伴うことは共有された必然のようだ。

「建築士」は「資格」であるが「建築家」には資格はないからと言って自ら「建築家」と名乗ることは憚ったほうが良い。

「~家」とはその道を極めようとしている人物を指していう言葉であって他人が決めることだから。

2024年09月27日 Fri

我が師「小川行夫」のことを話そう⑩

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小川行夫の事務所には1年半しかいなかったのですがその間に色々なところに連れて行ってもらいました。

工事途中の現場はもちろんですが、下北沢のジャズバー、百軒店の朝までやっている居酒屋、前川先生とお会いできた建築家協会のホールにあるカウンター・バー等など。一緒に飲ませてもらったことばかり思い出します。(笑)

一年間の蜜月のうち一番印象深かったのが京都の老舗旅館に連れて行ってもらったことです。いつものように朝の9時に事務所に行くと「今日は京都に行こう!」といいます。

なぜ急に京都に行くことになったかは説明もありませんでしたから、まさかその日のうちに出かけるとは思っていなかったので驚きましたが、京都に行けることは嬉しかったです。

その頃はまだ京都駅周辺にも町家が残っていて駅からほど近い旅館に泊まることになりました。その旅館は「よねだ旅館」といいます。義理の父の知り合いでNHKの関係者が京都の定宿にしていたようです。どうやら近くホテルが出来るので立ち退きになるということで女将が連絡してきたようです。

「おいでやす!」と出迎えてくれた女将は初老の綺麗な方で元芸妓さんです。パトロンから町家をいただいて旅館にしたということでした。宿泊は二階の2部屋のみで朝食だけの片泊まりでした。

古い建物で数寄屋造りなのにも感動しました。二階の部屋に通されてすぐに、この美しい部屋を実測したいと女将申し出ると「あら熱心やわぁ!昔の小川さんみたいやわぁ!」と言われました。小川さんも若いときにこの建物の実測をしたみたいです。

わたしが実測している間小川さんと女将は楽しそうに昔話に花を咲かせていました。女将が義父のことを「可愛いお人でしたわぁ!」というのでドキリとしましたが、その流れで女将の知り合いの先斗町の小料理屋に連れて行ってもらいました。そこで初めてスッポン鍋をいただき生き血で割ったお酒を飲みました。女将いわく「若いから精力おつけやす!」

女将が出かける時の着物は泥染めの大島だったと思います。とても綺麗でした。

帰ってきても寝ている暇はありません。遅くまで部屋を実測させてもらいました。柱や鴨居の細さは流石に京都だと思いました。プロポーションが良く障子の組子が綺麗です。

そういえば小川さんの建物も骨太の架構ですが建具は繊細です。もしかすると原点は「よねだ旅館」かも知れません。

京間なので畳が大きく部屋は広く感じました。建具もさることながら土壁も繊細です。外部に面して壁の竹下地の露出した小舞窓があったので壁の厚みを測ることができました。

驚いたことに厚みはたったの50ミリでした。柱は90ミリですから薄くなるのも納得です。冬は寒いだろうな。

小川さんには感謝しています。たった一年の間に実に多くのことを体験させてもらい身につけることができたのですから。二言目には「建主の娘婿だからしょうがない」が口癖でしたが厳しくも優しくとても可愛がってもらった気がします。感謝!感謝!です。(完)

 

2024年09月26日 Thu

我が師「小川行夫」のことを話そう⑨

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好評につき、我が師「小川行夫」の話を続けます。

実はこのブログを読んでくれている若い方から「もうそんな時代では無いでしょう」という感想をいただきました。

たしかに大工の世界の「徒弟制度」はなくなりましたし、いまや職人に憧れる若い人も少ないと思います。しかし徒弟制で鍛えられた昭和の職人を誇りに思っている人間としては、あの頃の現場が面白くて書かずにはいられないのです。

当時、職人の休みは盆暮れくらいしかなく滅私奉公させられていました。それでも活き活きと仕事をしていたのが良かったと思ってしまうのです。今なら労働基準局にしかられます。

小川行夫と大工の加藤正志棟梁は、携帯電話もない時代の連絡が大変だった頃に、なんと小川さんが現場に電話を引かせました。加藤棟梁は現場が始まると敷地の隅に合板の板で小さな小屋を作って住み込んで仕事をしてたので固定電話を引くことができたのです。

電話は毎日のように気が変わる小川さんの要望に答えるためです。小屋のつくりは屋根にブルーシートをかけて雨をしのぎ、2坪くらいの室内に布団を敷き炊飯器と缶詰と一升瓶が置いてあるだけでした。いまのように弁当屋もないので毎日お米を焚いていました。

枕元には試作の「継手」「仕口」のモックアップがところ狭しと転がっていました。毎日寝る前にオリジナルの継手・仕口を考えるので毎回面白い木組になりました。明るくなると起きて現場仕事にかかり、暗くなるとお酒を飲んで寝る生活を何ヶ月も続けるのですが弟子を使わないので、いつも一人で現場でした。時々図面を届けに行って掃除を手伝うと嬉しそうにお酒を振る舞ってくれました。

実は、わたしが独立して初めての仕事を加藤棟梁にやってもらいたくて自分としては精魂込めた図面を持っていったことがあります。何しろ初めての家ですから緊張して加藤棟梁に見てもらいました。

棟梁はしばらくじい〜っと図面を見て「どっかで見たことあるね~…」と言ったきり取り合ってもらえませんでした。小川さんのところを辞めたばかりだったのでそっくりに描いていたのでしょう。下手な図面には気が乗らなかったようです。

加藤棟梁が造ってくれそうもないので、その頃人づてに知り合ったばかりの渡辺正司棟梁を現場につれて行って「こんなふうにできるか?」と聞きました。

渡辺棟梁には失礼な話ですが、小川流の木組をやってもらうには全ての柱・梁を見せる「真壁」づくりでなければいけません。その頃は大壁が流行り始めだったのでつくりたいのは大壁じゃないことを伝えたかったのです。

全て化粧材で削るのだとわかると怪訝な顔をされましたが、「昔の仕事をすればいいんだろ!」と言って、木組を理解してくれて、その後30年近く渡辺棟梁とコンビを組みました。

何軒かの家づくりの合間にカミさんが内緒で小川さんを完成した家にわたしに内緒で連れて行ったことがあるようです。

後で「あんたの旦那は飯が食えるよ!」と言われたと聞きました。わたしにとっては最高の褒め言葉です。

もしわたしが連れて行ったら、つれない返事しかしなかったと思いますが、さすがは建主の娘には正直に答えてくれたのでしょう。ありがたいことです。

万騎が原の家 何度も図面を届けに行きました。

2024年09月24日 Tue

我が師「小川行夫」のことを話そう⑧

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わたくしの事務所の周りには小川行夫の建てた建物がたくさんあります。最初に建てたのがカミさんの家で当時からモダンな外観が人目を引いたのでしょう。近所の知り合いがこぞって小川さんに家の設計を依頼しました。

義父がNHKのシナリオライターだったこともあり、その家を建てた建築家として信頼されたのでしょう。まわりはちょっとした小川建築の住宅街という様相です。

親戚の家も全て小川さんの設計でしたからカミさんと結婚してこの町に住み始めた頃には、わたくしの設計者として入り込む余地がありませんでした。

もう60年も前の建物ですが、今回改めて見て回ってその先進的な外観に感心しました。

最初小さなカミさんの家は金融公庫を借りて建てたのが始まりで1959年(昭和34年)から1969年(昭和44年)まで度々増改築を重ねてきました。少しずつ拡張して二階建てに作り変えたりしています。

この二階の上棟の時の騒動は前にもお話しましたが、建前の次の日に解体して建て直したという話があります。大工が柱の長さをもったいないと思って勝手に3メーターの柱材をそのまま使ったので設計とは違った階高になったという理由で小川さんを怒らせたのです。流石に二度の建前 には驚きますが、当時は図面を読めない大工も多くいたのでしょう。

次にカミさんの友人の家ですが、この家あたりから傾斜屋根のない陸屋根の四角い家を作り始めます。今見ても斬新でモダンな家ですが60年前の設計とは思えません。

1階のRCの壁が建物の真ん中を貫通しています。その両面に「花」と「鳥」の文字が彫り込まれています。小川さんの依頼で彫刻家が現地に来て彫っていったそうです。

おそらくRCの壁は力を負担してなくてあくまでも飾りだとおもいますが、こんな遊びが許された時代だったのでしょう。

もう一軒近くのRCの建物に同じように壁の貫通した建物がありますが、驚くことに、こちらは二階の架構までもRCの駆体を貫通しています。この家で初めて小川さんに対面したのですが、初対面のわたしに恥ずかしそうに照れていた姿を覚えています。基本的には人見知りなのです。

このときはまだよく小川建築を飲み込めないでいました。変わった家だなぁ!くらいの印象でした。しかし、このブログを書くために改めて写真を取りに廻ってきましたが、どの建物も若い小川さんの新進の気概を強く感じました。これが大工から設計に進んだ人の家には見えません。

外壁は当時出たばかりの船舶の甲板に使用するようなベイマツの合板です。朝日ウエルドウッドといいます。ベイマツの木目の際立ったパネルで水にも強いので外壁にも使える優れものです。

いまでは外壁材といえば、窯業系のキッチュな木目の板が市場を席巻していますが、当時は厚張りの合板パネルが流行ったようです。

無垢の木に近い新しい合板を得意げに使う小川さんのドヤ顔が浮かんでくるようです。(笑)

2024年9月23日撮影

 

2024年09月23日 Mon

我が師「小川行夫」のことを話そう⑦

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小川行夫は自身の建築に必ず彫刻作品を取り入れていました。建物を造るとどこかに彫刻を飾るのです。「建築は凍れる音楽だ」といったのはヨーロッパの詩人ですが小川行夫はコルビジェのように彫りの深い彫刻ような建築を標榜していたのだと思います。だから彫刻作品を何処かに置きたかったのでしょう。

カミさんの家にも彫刻がありました。どちらかというと枯れた佇まいの木造住宅ですが階段室の見返しには、モルタルでつくったレリーフがあります。ソヤマさんという藝大出身の彫刻家でしたが後に自死してしまいます。

小川さんと組んでその後有名になった彫刻家としては「若林奮」さんがいます。生きているうちに近代美術館で企画展が出来たという伝説の人です。小川さんの知り合いだった若林奮さんは義父とも仲良くなって一緒にエジプト旅行にも行きました。わたしの事務所に義父から譲り受けた「港に対する攻撃」という小品があります。本来ならば、美術館に置いておかなければいけない作品ですが、事務所のわたしの机の脇にそっと置いてあります。(笑)

小川さんは若林さんとはかなり懇意にしていましたが、何回か組んでいるうちに喧嘩をして分かれたようです。

以前、次男が彫刻をやりたいと言って五日市の若林さんのアトリエに家族で会いに行ったことがあります。奥さんは藝大の学部長の娘さんでした。

その時に「僕の造る彫刻は、全く個人的なものです」とおっしゃっていたのが印象的でした。

とはいえ若林さんは東京都が多摩の山奥を産廃捨場にしようとしたときに、山中に自身の彫刻(緑の森の一角獣座1996年~1999年)を置き「作品に触れるな」と反対運動をした人です。

ご自宅の庭にあるニレの木の葉っぱが落ち葉になると、一枚一枚拾ってオリジナルの鉛の箱に丁寧に入れて、また地面の中に埋め戻すという行為を繰り返していました。まさにコンテンポラリーアートでした。

もう一軒、事務所の近所に建つ小川行夫設計のRCの住宅の玄関には彫刻を置くための台座だけが長い間残っていました。後に若林さんの知り合いの彫刻家が作品を造って置きましたが、これも彫刻家と小川さんが喧嘩別れをした痕跡でした。とにかく喧嘩っ早いのですよ…。

幸せな事例もあります。これまた近所の建物ですがモダンな陸屋根の木造の家にコンクリートの壁が貫通しているようなデザインで、その貫通するコンクリートの壁の表面に「花」と「鳥」の文字が彫り込んであるのです。彫刻家が現場にやってきて彫ったといいます。

実はわたくしの事務所の周辺には小川建築ばかりでわたくしのはいりこむ余地がありませんでした。少し前まで白井晟一さんの「虚白庵」もあったのですが壊されました。かろうじて木造の「アトリエ」が残っています。お孫さんの原太さんとは友人なので中に入れてもらったこともありますが、大きなガランドウの建物です。

60年前には小川行夫が建設中の現場に通りかかって中を覗いていたようです。「紫色のカーペットを敷くなんて、チイチイパッパ(幼稚園)だネ」といって嘲笑っていたようですが、その後しっかりと白井建築の影響を受けています。何しろ描く図面が白井晟一そっくりでしたから…(笑)

 

2024年09月22日 Sun

我が師「小川行夫」のことを話そう⑥

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小川行夫がカミさんの家を設計したのはカミさんが4歳の頃だったといいます。子ども部屋に妹さんと一緒に寝るための二段ベッドを造り付けた時のこと、頭のあたりに風通しのための細長い窓を開けたそうです。その時に幼いカミさんの頭の寸法を図り、少しちいさめの高さにして窓から外に落ちないようにしたといいます。さすが細かい配慮をする丁寧な設計です。男性的な架構をつくる割には細かい気遣いに驚きます。

カミさんの家は何度かに分けて増改築を繰り返したようで、わたくしとカミさんが付き合い始めても時々実家に打ち合わせに来ていました。小川さんが来れば酒盛りになるのが決まりでよくご一緒しました。僕とカミさんが付き合う前はどうやら時々誘い出して飲みに行っていたようです。カミさんと結婚したら今度は妹さんを連れ出していました!建て主の娘はコンパニオンじゃないって!ましてや僕のカミさんと義理の妹だし!(笑)

実は小川さんは少し吃音があって、女性と話すのが苦手で飲み屋で同席した女性に「オマエが口説いてこい!」と命令するので困りました。わたしも女性は苦手です。(?)なので小さい頃から知っているカミさんとは話がしやすかったのでしょう。最もカミさんもウワバミですからむしろお酒が飲みたかったのかも…(叱られる~…汗)

建主さんと話していても時々吃音が出るのでうまく伝わらないことがありました。そこでよせばいいのにわたしがしゃしゃり出て「僕がリードしますから小川さんはあとからついてきてください!」なんて言ったものですから二度と口をきいてくれなくなったのです。無神経に小川さんを傷つけてしまい悪いことをしました。若気の至りです…(汗)

その後は半年間、事務所に行っても「ああ」とか「うう」とか言うばかりでした。

当時はコンクリートの二世帯住宅の図面を描いていましたが、描いた図面を小川さんに見せると展開図の窓枠の寸法を直すように指示されました。天気がいいと「そうだなぁ、30ミリかな」と言い、雨の日は「やっぱり24ミリだなぁ」といいます。毎日のようにです。図面は1/50ですから図面上の1ミリが実際の寸法では50ミリです。つまり1ミリの線の隙間にに30ミリと24ミリを描き分けることがどれほど大変かわかりますか?

そんなことを繰り返しているうちに図面の枚数が80枚近くになりました。二世帯住宅とはいえ一軒の住宅で80枚は異常だと思いました。手書きの図面を何度も書き直すのでトレッシングペーパーが黄色くなって汗の匂いがしました。

もう限界でした。それでこれ以上は無理だと悟って「辞めたい」と申し出たのです。

健全に務めた期間はたった一年間でしたが、密度の濃い時間でした。どんなに無理難題を言われても事務所に通うのが楽しくてたまりませんでした。

何しろ、こちらは全く既成概念をもたない「水を吸うスポンジ」ですから。小川行夫を通して毎日建築の世界に包まれているような感覚でした。

日本の伝統構法にこだわりながらアメリカンナイズされた木組の家つくる小川行夫を「木組のモダニスト」と呼ぶ人がいましたが、まさにアメリカン「モダン」でした、禁欲的なシエイカー教徒のつくる「バーン(納屋)」のようで日本建築にしては「バタ臭い」不思議な家づくりを叩き込まれその後の人生を決定づける実り(災難?)の多い一年でした。(笑)

大宮の家 まさにバーンのような木組のモダニズム

2024年09月21日 Sat

我が師「小川行夫」のことを話そう⑤

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わたしが入所した頃小川さんは50歳で油の乗っている時期でした。建築雑誌の取材も度々あって「木造建築の学校」を開こうという構想もありました。すぐに頓挫しましたが…そんなおりに突然「木造の構造設計者はいないのか」と尋ねられました。

わたしが知っている構造設計者は「現代計画研究所」で知り合った山辺豊彦さんでした。早速お呼びして面会してもらいました。木造に造詣の深い小川行夫はとうとうと木につて語り山辺さんを驚かせたようです。その時の山辺さんは「マッちゃん!木は強度がバラバラで、節や欠点が多くて質が一定しないから計算は無理だヨ」と言ってました。しかしいまでは「ヤマベの木構造」といえば日本中の設計者の教科書になっています。おふたりを引き合わせてよかった!

小川さんには相棒の大工棟梁がいました。「加藤正志」という満州帰りの名人です。加藤さんは30歳過ぎてから大工になったというまさに中年者でしたが、腕がいいので小川さんは加藤さんを離しませんでした。

とにかく大人しくて言葉の少ない人でした。返事はいつも「はい」と「そだね」しか言わない人でした。かなり小川さんの無理難題を聞いていたと思います。性格も良くて尊敬する棟梁でしたが他人を使えないので全て自分でやってしまうのです。

ある時現場に図面を届けに行ったら大きな破風板を一人で上げようとしていたので手伝いました。わたしが板の片方を支えましたが加藤さんが破風の拝みにシャチ栓を打つとカクンと音がしてピッタリとハマりました。何と言うすごい仕事でしょう。

加藤さんはお酒を飲まないのですが、ある時小川さんを接待しようと思ってバーに連れて行ったそうです。小川さんがビールばかり飲んでいると「もう少し高いお酒を飲んでよ、小川さん、ほら色についたお酒はどう?」と言ってカクテルを勧めたようです。さすがにこれには小川さんも「カクテルなんか甘くて飲めない」と困ったようです。歌がうまくて上棟の直会では現場に携帯カラオケの機器を持ってきて気持ちよさそうに歌っていました。

小川さんの口癖は「建築は音楽だ」「リズムとアドリブだ」と言うのですが、「松井、加藤は歌がうまいから仕事もうまいんだ、オマエも歌え!」と無理やり歌わされましたが、本人は決して歌いませんJAZZ・MANなのに…。おかげさまでこちらはカラオケが好きになってしまいました。(笑)

いつだか大晦日の夜に突然奈良に出かけて行きました。東大寺の「南大門」の下で除夜の鐘の音とともに「ジョン・コルトレン」を聴くというのです。「木造建築の学校」の生徒さんと一緒に出かけたようです。音楽で繋がる人は好きだったようで、下北沢のジャズバーで知り合った素人を事務所に入れるというので驚いたことがあります。よほど気に入ったのでしょう。わたしよりも歌がうまかったのかもしれません…。(汗)

全くハチャメチャな話ですが何年かしてその人と偶然どこかのバーであったときに「覚えてますか?下北のジャズバーでお会いしましたよね」と言われ一緒に飲みました。その人は小川さんに感化されてその後建築設計の道に入ったそうです。

(つづく)

本間邸 叔父さんの家に初めて訪れたときは思わず靴下を脱いで上がりました。

2024年09月20日 Fri

我が師「小川行夫」のことを話そう④

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小川行夫はカミさんの家を28歳のときに設計したといいます。カミさんの父親は「バス通り裏」「天と地」などのNHKのドラマの脚本を手掛けたシナリオライターだったのですが、小川さんの父親が「詩人」だったので文学を通して交流があったようです。戦時中はスパイとしてモンゴルに派遣されるのですが、どうやら家にお金をいれることなくモンゴルのヤギ酒「パイカル」を飲んでばかりいたようです。日本に帰って来ても、働かないでよく義父の家に来てはゴロゴロしていたようです。小川さんの母親はモンゴルから送られてきた亭主の葉書に「行夫が大きくなったら一緒にパイカルを飲みたいなぁ」と書かれたのを見て激怒して、破いて捨てたとか…。

小川行夫の事務所に入所することを進めてくれた義父は「つまらない事務所に行くよりずっと面白いよ」と言ってわたしを紹介しました。今思うと無責任だと思います(笑)

そういう義父の家づくりにまつわる小川行夫の武勇伝はたくさんあります。

まず建前の次の日に建て方をやり直したといいます。その時の大工が3メータの柱材をもったいから切らずに使ったので階高が設計より高くなったのです。小川さんは建てたばかりの骨組を壊してまたやり直したとか、階段の納まりが気に入らないからと大工のノコギリを奪って自分で作り変えたとか…もと大工ですから…。

小川さんの偏屈さは親戚中に知れ渡っており、後で聞いた話ではカミさんのまわりでは松井が本当に務まるのだろうかと心配したようです。みなさんの期待どおり、1年半しか務まらなかったのですが、なぜか親戚中から「よくがまんした!」と褒められました。(笑)

一年間はかなり小言を言われましが、あとの半年は口を利いてくれませんでした。生意気で納得しないと生返事をしてかなり反抗的だったようです。

「やめたい」と切り出したときには嬉しそうに「最後にオマエに言っておくことがある!」「親方がカラスは白いと言ったら、白いんだ!」と怒鳴られました。こちらは「何いってんだ!カラスは黒いや!」と思って辞めてきました。また無職だ…。(汗)

1年半でしたがいろいろな経験をさせてもらいました。最初はRCの二世帯住宅の基本設計。これは建主に褒められたのですが、小川さんにはそれが気に入らなかったようです。悔し紛れに「RCは雌型にセメントを流すだけだから簡単なんだ!」と言っておりました。

木造には携わらせてもらえず、習うこともなく、建て方の見学だけが勉強になりました。何しろ木造の世界を初めて見たわけですから、スポンジが水を吸うように吸収しました。それでも最後まで図面は描かせてくれませんでした。時折打ち合わせに来る外弟子がいて描いてしまうのです。職人も事務所に呼んで打ち合わせていました。そのときは「ビンタ伸ばし」とか「ひかり付け」とかいう意味不明な言葉に耳をそば立てて聞いていました。

それでもわからないところは夕方になると必ず晩酌を始めるので、いい機嫌の時に質問してメモしました。いろいろ聞くと「しょうがねぇなぁ。内弟子だから教えてやるか!」と教えてくれましたが、その解説がまたわからない?それで翌日聞いてまたメモする、また飲ませる、また聞くの繰り返しです。短い間でしたがわたしにとっては貴重な学びの場で「小川塾」でした。

(つづく)

本間家は誰も茶道をやらないんですがね…。最後は納戸になってました。

2024年09月19日 Thu

我が師「小川行夫」のことを話そう③

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小川行夫は大工でしたが、建築家協会の会員でもありました。当時家協会の会員には複数の会員の推薦がないと入れなかったと聞いています。建築家も認める大工だったと言えます。

家協会にはよく連れて行ってもらいました。行くと毎回バーカウンタで飲んでいました。夕方になると有名な建築家が見えてさながら「サロン」のようでした。

小川さんはそのバーカウターで「前川國男」先生と仲良くなったようです。なにでも数人で製図板とT定規使い方の話をしていたら小川さんの話を気にった前川先生が「君、名刺をください。」といいってきたと聞いています。

その後家協会で会員の各自の作品発表会が行われたときには小川さんが「西荻窪の家」の「木組」の建て方の動画を映写したらしいのですが、前川先生が食い入るよう観ていて「これはどこに建っているんだ」と興奮気味に聞いてきたそうです。

「西荻窪の家」はカミさんの叔父さんの家で、まさに「伝統構法の家」でした。カミさんと結婚祝をしてもらった後で叔父さんに家を見においでと言われて伺いました。

最初に玄関に入ったときに感動で立ち尽くしたことを覚えています。この家を見て自分も建築がやりたいと思いました。数年前に壊されるときはみんなでお別れ内覧会をやらせてもらいました。その時は前川先生がもうご存命でなかったことが残念です。

前川先生は時々事務所に低い声で電話をかけてくるのですが「小川くん、いるかね」と名前を名乗らずにぶっきらぼうな声でした。こちらは誰かわからずに電話をつなぐと小川さんは直立不動で「はい!わかりました!」と返事をして、いそいそとテーラーで仕立てた一張羅の洋服を着てポケットに大金を入れて銀座の寿司久に出かけていきました。

いつだったか家協会の新年会に連れて行ってもらったときのこと、私を前川先生に紹介してくれました。みんなが講堂で餅つきをやっているのに奥の暗がりに背中の丸い影があってボウっと光が射していました。前川先生が一人で後ろ向きに座っていらしたのです!

背中の光はいわゆる「後光」に見えました。仏像の背後に光る「後光」です。驚いたわたくしに小川行夫はあろうことか「こいつが先生の設計した上野文化会館のコンクリートは薄いってよ!」と突然言うのです!参りました。

わたしが学生時代に毎日通っていた上野駅の公園口に前川先生設計の文化会館があるのですが、パラペットの飾り穴がコルビジェのロンシャンを真似たと思うのですが、いかんせん150ミリくらいの薄い立ち上がりに空いた穴なのです。

それを前に小川さんに話したことがあったのですが、まさか直接言うとは!ドバっと冷や汗が流れましたが、前川先生は首を回さず、体ごとこちらに向いてじっとわたしの目を見ながら一言。「あっそ」といいました。驚いたのなんのって、もう穴がったら入りたい気持ちでした。(汗)

前川國男先生の作品はどれも愚鈍なくらい実直で格好を付けない素直なところが好きです。小川さんと気があったのはおそらく質実剛健で不器用な素のままの生き様とデザインの方向が似ているからでしょう…。生意気いいました…(汗)

我が師「小川行夫」のことを話そう③

本間邸玄関

2024年09月18日 Wed

我が師「小川行夫」のことを話そう②

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小川行夫は13歳のときに終戦を迎え、昨日まで「鬼畜米英」と息巻いていた教師たちがいきなり「ディスイズ・アペン」と敵国語と呼んでいた英語を話し始めたことに腹を立て、中学を中退して大工棟梁に弟子入りしたそうです。

大工になるというので親族会議にかけられたようですが、おじいさんが大工だったので許されたと聞いています。大工見習いは遠山彦三郎という当時の名棟梁のもとで主に町場の仕事を覚えたようです。スタンダードな町場の仕事が大好きで数寄屋の仕事は「グレ仕事」だと言って笑っていました。「スキモノ」の世界は「ちょっとグレようか?」と言いながらつくっていたようです。

そういう小川さんも終戦後の一時期は、本当にグレて渋谷の街でカツアゲをしていたこともあると言っていました。喧嘩に強くなりたくてボクシングを習い四回戦ボーイまで行ったようです。どおりで喧嘩っ早かった。

Jazzにも興味を持ちドラマーをやっていたようで、当時のジャズマンのジョージ川口さんとも交流があったらしくて、時々事務所に妖艶な声の女性が電話をかけて来ると「オウ! サウス!」ととても嬉しそうでした。なんでも「安田南」というジャズボーカルの女性だとか?

そういえば飲みにくのはジャズのかかっているスナックやバーが多かった。飲みながら割り箸でテーブルの角を叩くので出禁になった店もありました。

そういう店にはわたしを先にテーブルに着かせてウイスキーを注文した後から、バーンと扉を蹴って店に入って来るのです。あげくに「出るぞ!」と言ってお金も払わずに帰るのでほとほと困りました。もうヤクザですよね!

そんな師匠に百軒店や下北沢の夜の飲み屋街で後ろにくっついて歩くので、こちらもすっかりワルになった気分でした。(笑)

黒人が大好きで当時アフリカ大使館まで友人を呼び出しに行って安い居酒屋でよく飲んでました。もちろん私も一緒に行くのですが、英語が話せないので小川さんに「大学院まで出てなんてザマだ?」と言われました。なんと小川行夫は戦後の「ギブミー・チョコレート」の世代で、おばさんがアメリカ帰りで鍛えられて英語が話せたのです!またしても絵も下手で英語も下手なできの悪い弟子にされてしまいました。また白髪が増える…。

小川さんの仕事は日本の伝統的な技術で金物を使わずに木組の架構をつくるのですが、ジャズが好きなせいか少し「バタ臭い」雰囲気があります。

ジョン・コルトレンのようにリズムが大切だと言いながら「バーンをつくるのだ!」といってガランドウの納屋のような空間を好みました。

そういいながら細かいところまで神経の行き届いた「女性的なデザインがいい」と言って矛盾してましたが、木の使い方は力強く男性的でした。

いわゆる偏屈で複雑で難しい性格で「お弟子さんも大変だね!」といろいろな人によく言われました。おかげでその悪い性格を引き継いでしまったようです…(汗)

(つづく)

本間邸(現存せず)義叔父の家

2024年09月17日 Tue

我が師「小川行夫」のことを話そう①

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 大学を修了して藤本昌也先生の主宰する「現代計画研究所」で都市計画を学んでいた頃、一軒でもいいから建築を建てたくて、結婚したカミさんの家を建てた「小川行夫」の事務所に入所した。「変わり者だよ」と義父が言う設計者である。

訪ねた頃は、わたしはすでに26歳で子どももいたので無職では生活できないと思い、なんの抵抗もなく会いに行った。

 初対面の小川さんは「オマエいくつだ?」と私を見て尋ねた。「26歳です」というと、いきなり「帰れ!帰れ!」という。突然の言葉に驚いて「なぜですか?」と食い下がると「オマエなんか中年者だ!ものにならねぇ!」という。「中年者」って30代中頃かと思っていたので更に食い下がると「大工の世界では18歳を過ぎたら中年者だ!」という。

 どうやら15歳の中学卒業の春から大工仕事を始めると3年で年季が開けるそうだ。すでに8年も年を食っているので今から始めてもモノにならないという。「色気が出てからでは遅いんだ」ともいう。大工の弟子は右も左もわからないうちから修行に入り、親方が「右に走れといえば右に!左に走れといえば左に!なにも考えずに走るんだ!」という。

 子どもまでいる弟子は取らない!と追い払われたがしつこく食い下がると「しょうがねえなあ。建主の娘婿だから入れてやるか」ということで机だけはもらった。

次の日にお茶を入れると「まずい!」と言って飲んでくれない。スケッチを書いてみろと言われて、美大を出たのでチャンスだと思って書いた絵は、「パースが狂っている」と言って取り合わず。小川さんが眼の前でボールペンで書いてくれた絵が「うまい!」しかもこちらが見ている向きで逆さまに描いた!書き直しの利かないボールペンでだ。「すごい!」このときから、やることなすこと全て否定されて白髪が生えてしまった。

 最初に図面を描かせてもらったのは、地下室のあるコンクリートの建物であった。てっきり木造の設計者だと思っていたので驚いたが、RCは斬新で更に驚いた。まるで要塞のような堅牢なデザインの二世帯住宅であった。設計に時間をかけることこの上なく現場が始まっても待たせてばかりで図面を届けると現場監督からこっぴどく叱られるのはわたしだ。「現場が始まってから3年。まだ上棟もしない建物なんだぞ!」

とにかく遅い!監督が事務所に来て図面が出来上がるまで待っていることもしばしば。これはとんでもないところにきたなぁ!

現場がかわいそうだった。ある時「現場が図面を待ってます!」というと「オマエはどっちの味方なんだ!」叱り飛ばされた。

我ながらすごい事務所に来たなと思ったが建築のことはすべて小川行夫さんに教わった。

(つづく)

2024年09月12日 Thu

松井事務所の日常

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毎日暑い日が続きます。

みなさまお元気でお過ごしでしょうか?

このまま地球が沸騰してしまうと人類が住めなくなるのではないかというほどの気候変動が起きています。

そんな中、松井事務所では5つのプロジェクトが進行しております。

作業のSTAFFは外注です。ブログ欄でも紹介しましたが、外注スタッフは「木組のデザインゼミナール」の優秀な修了生のOGと事務所のOGです。

5つのプロジェクトを解説すると「天橋立の平屋」の新築が京丹後で海に近く土地が低いので津波に備えて「高床式」の伝統的な木組となりました。「木組の家」に住みたいという御夫婦が遠路はるばる訪ねてこられて設計が始まりました。

高床の梁組が難しいので木組のスケッチを描きながら施工の検討を重ねてすすめています。完成までにはさらに一年はかかるでしょう。

房総半島の「古民家再生」は元村長さんの平家です。大きな家で3年がかりで着工にこぎつけました。地元で実績のある工務店が担当します。こちらも工事が始まったばかりでこれから現場監理が始まります。

江戸川区の「古民家再生」は関東大震災で一度壊れた明治時代の家を再建したと聞いております。柱・梁が太くしっかりしてるので再生しがいがあります。ただ予算調整に手間取っています。最近の建設費の高騰は半端ではありません。

「大宮の平屋」は48坪の新築です。こちらも木組の家がほしいという建て主さんと先日工事契約を結びました。これから始まります。今年の正月に松井が手書きで書いた図面を元に付き合いの長い工務店が「施工図」を描いてくれているので、とても助かります。

東京都の杉並区上荻ではじまる「デイケア併用住宅」はようやくアイデアスケッチがまとまり実施設計が始まります。手書きのスケッチを元に外部スタッフの作図が始まります。現場が近くてとても助かります。

とはいえどれも伝統的な「木組の家」ですから経験のある工務店に仕事が集中しており現場監督も大変です。ありがたいことにどの家も伝統構法を実践できる職人たちに助けられています。おかげさまで松井事務所では職人不足はありません。

さらに21期を迎えた「木組みのデザインゼミナール」の講座も始まっております。毎月一回、私家版トリオが終日受講生の添削と指導を行っています。zoom講座で白熱しております。

以上、忙しい毎日ですが、合間を見て展覧会を見に行ったりして気分転換をしています。もちろん毎晩の「うがい」もかかせません(笑)

さぁ、暑さを吹き飛ばして、バリバリ行くぞ!と誓う齢69歳でした!

デイケア併用住宅

「大宮の平屋」

「天橋立の平屋」模型とスケッチ

「房総半島の平屋」完成予想パース

2024年08月29日 Thu

「コンペ」は選ぶ人も試されている

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新しい建築をコンペで選ぶことが増えています。

優れた建物のデザインを競い合い、選ぶことは良いことです。

しかし、作品性を競い合うことに熱心なあまり、「気をてらったもの」が多いのも事実です。

デザインとは他とは違う「変わりもの」を考えるのだと勘違いしている傾向があるようです。

また審査する側にもデザインを理論的に分析することをしないで選ぶことが問題になっているように思います。

実際には審査員の個人的な「好き・嫌い」や「カッコいいか?よくないか!」で決まります。

審査に「評価軸」を設けず、人気の作家さんや実作のない大学の先生たちが審査員となって

自由に選び選考の様子は原則公開しません。

以前わたくしが審査員を務めさせていただいた審査会では「場所性と時間性」の軸を設けて審査を薦めるように提案しました。つまり「地域性や歴史」の視点からの採点です。

しかし審査員の方々には不評でした。「周辺の環境」や「構法や職人の歴史」に興味や造詣の深い方が少なかったのです。

むしろプレゼンテーションの上手なパネルが残ります。

これまでにいくつかのコンペに関わっていますが、残念ながら自由な人気投票での審査に限界を感じています。

とはいえ、ひとつでも社会的視点を持った作品を選ぶように努力しなければなりません。

他の審査員が選ばない大工さんが応募した地味ながら堅実な建物をわたしが選んで提示すると、それが賞を受賞するのです。ただし、他の審査員を説得する努力が必要です。

最近では、デザインの優れた職人さんも増えてきました。全国各地に若くて新しい職人が設計者を脅かしています。

それを「職人新世の時代」と呼んでいます。

審査員も試される時代になりました。

2024年08月27日 Tue

「濱田庄記念館座談会」のお知らせ

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9月1日14時より益子の「濱田庄司記念館」にて茅葺き職人さんたちと座談会を催します。

記念館の長屋門と上の家(母屋)の屋根の茅の葺き替えが終わった記念の座談会です。

若き女性の茅葺き職人さんの仕事は見事です。

みなさま是非ご参加ください。

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