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2024年09月23日 Mon

我が師「小川行夫」のことを話そう⑦

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小川行夫は自身の建築に必ず彫刻作品を取り入れていました。建物を造るとどこかに彫刻を飾るのです。「建築は凍れる音楽だ」といったのはヨーロッパの詩人ですが小川行夫はコルビジェのように彫りの深い彫刻ような建築を標榜していたのだと思います。だから彫刻作品を何処かに置きたかったのでしょう。

カミさんの家にも彫刻がありました。どちらかというと枯れた佇まいの木造住宅ですが階段室の見返しには、モルタルでつくったレリーフがあります。ソヤマさんという藝大出身の彫刻家でしたが後に自死してしまいます。

小川さんと組んでその後有名になった彫刻家としては「若林奮」さんがいます。生きているうちに近代美術館で企画展が出来たという伝説の人です。小川さんの知り合いだった若林奮さんは義父とも仲良くなって一緒にエジプト旅行にも行きました。わたしの事務所に義父から譲り受けた「港に対する攻撃」という小品があります。本来ならば、美術館に置いておかなければいけない作品ですが、事務所のわたしの机の脇にそっと置いてあります。(笑)

小川さんは若林さんとはかなり懇意にしていましたが、何回か組んでいるうちに喧嘩をして分かれたようです。

以前、次男が彫刻をやりたいと言って五日市の若林さんのアトリエに家族で会いに行ったことがあります。奥さんは藝大の学部長の娘さんでした。

その時に「僕の造る彫刻は、全く個人的なものです」とおっしゃっていたのが印象的でした。

とはいえ若林さんは東京都が多摩の山奥を産廃捨場にしようとしたときに、山中に自身の彫刻(緑の森の一角獣座1996年~1999年)を置き「作品に触れるな」と反対運動をした人です。

ご自宅の庭にあるニレの木の葉っぱが落ち葉になると、一枚一枚拾ってオリジナルの鉛の箱に丁寧に入れて、また地面の中に埋め戻すという行為を繰り返していました。まさにコンテンポラリーアートでした。

もう一軒、事務所の近所に建つ小川行夫設計のRCの住宅の玄関には彫刻を置くための台座だけが長い間残っていました。後に若林さんの知り合いの彫刻家が作品を造って置きましたが、これも彫刻家と小川さんが喧嘩別れをした痕跡でした。とにかく喧嘩っ早いのですよ…。

幸せな事例もあります。これまた近所の建物ですがモダンな陸屋根の木造の家にコンクリートの壁が貫通しているようなデザインで、その貫通するコンクリートの壁の表面に「花」と「鳥」の文字が彫り込んであるのです。彫刻家が現場にやってきて彫ったといいます。

実はわたくしの事務所の周辺には小川建築ばかりでわたくしのはいりこむ余地がありませんでした。少し前まで白井晟一さんの「虚白庵」もあったのですが壊されました。かろうじて木造の「アトリエ」が残っています。お孫さんの原太さんとは友人なので中に入れてもらったこともありますが、大きなガランドウの建物です。

60年前には小川行夫が建設中の現場に通りかかって中を覗いていたようです。「紫色のカーペットを敷くなんて、チイチイパッパ(幼稚園)だネ」といって嘲笑っていたようですが、その後しっかりと白井建築の影響を受けています。何しろ描く図面が白井晟一そっくりでしたから…(笑)