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2024年09月18日 Wed

我が師「小川行夫」のことを話そう②

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小川行夫は13歳のときに終戦を迎え、昨日まで「鬼畜米英」と息巻いていた教師たちがいきなり「ディスイズ・アペン」と敵国語と呼んでいた英語を話し始めたことに腹を立て、中学を中退して大工棟梁に弟子入りしたそうです。

大工になるというので親族会議にかけられたようですが、おじいさんが大工だったので許されたと聞いています。大工見習いは遠山彦三郎という当時の名棟梁のもとで主に町場の仕事を覚えたようです。スタンダードな町場の仕事が大好きで数寄屋の仕事は「グレ仕事」だと言って笑っていました。「スキモノ」の世界は「ちょっとグレようか?」と言いながらつくっていたようです。

そういう小川さんも終戦後の一時期は、本当にグレて渋谷の街でカツアゲをしていたこともあると言っていました。喧嘩に強くなりたくてボクシングを習い四回戦ボーイまで行ったようです。どおりで喧嘩っ早かった。

Jazzにも興味を持ちドラマーをやっていたようで、当時のジャズマンのジョージ川口さんとも交流があったらしくて、時々事務所に妖艶な声の女性が電話をかけて来ると「オウ! サウス!」ととても嬉しそうでした。なんでも「安田南」というジャズボーカルの女性だとか?

そういえば飲みにくのはジャズのかかっているスナックやバーが多かった。飲みながら割り箸でテーブルの角を叩くので出禁になった店もありました。

そういう店にはわたしを先にテーブルに着かせてウイスキーを注文した後から、バーンと扉を蹴って店に入って来るのです。あげくに「出るぞ!」と言ってお金も払わずに帰るのでほとほと困りました。もうヤクザですよね!

そんな師匠に百軒店や下北沢の夜の飲み屋街で後ろにくっついて歩くので、こちらもすっかりワルになった気分でした。(笑)

黒人が大好きで当時アフリカ大使館まで友人を呼び出しに行って安い居酒屋でよく飲んでました。もちろん私も一緒に行くのですが、英語が話せないので小川さんに「大学院まで出てなんてザマだ?」と言われました。なんと小川行夫は戦後の「ギブミー・チョコレート」の世代で、おばさんがアメリカ帰りで鍛えられて英語が話せたのです!またしても絵も下手で英語も下手なできの悪い弟子にされてしまいました。また白髪が増える…。

小川さんの仕事は日本の伝統的な技術で金物を使わずに木組の架構をつくるのですが、ジャズが好きなせいか少し「バタ臭い」雰囲気があります。

ジョン・コルトレンのようにリズムが大切だと言いながら「バーンをつくるのだ!」といってガランドウの納屋のような空間を好みました。

そういいながら細かいところまで神経の行き届いた「女性的なデザインがいい」と言って矛盾してましたが、木の使い方は力強く男性的でした。

いわゆる偏屈で複雑で難しい性格で「お弟子さんも大変だね!」といろいろな人によく言われました。おかげでその悪い性格を引き継いでしまったようです…(汗)

(つづく)

本間邸(現存せず)義叔父の家