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2023年11月12日 Sun

「父の戦後」①鹿児島との縁

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今日は私の父が戦後満州から引き揚げてきたときのエピソードを描きます。

家づくりの話ではありませんが少し珍しい出会いがあったので、書き留めて置こうと思います。

 

鹿児島

 

私の父は昭和2年生まれでしたから生きていれば96歳です。

16歳で満州鉄道に入社して19歳のときに中国の満州国大連で戦後を迎えたと聞いています。

背が高くてハンサムだったので自慢の父でした。

私は父のふるさとの村の近くであった福井県大野市という城下町に生まれましたが父の実家は在郷の庄屋だったと聞いています。

ところが父の親は百姓であったのによく芸者遊びをする放蕩息子だったようです。

 

 

若いときには芸者と北海道に駆け落ちした後に落ちぶれて帰ってきたときも村に入れてもらえなかっそうです。

村外れの神社の境内に屑屋を建てて住んでいたと言います。いわゆる「村八分」の制裁を受けたようです。

そんなことで元は庄屋だった家もだんだん傾いてきたといいます。そこで父は次男だったことから村を出て満州に渡ることになったと聞いています。

父は私には戦時中の満州の話をほとんど聞かせてくれませんでした。妹には話していたようですが…。

ところが3年前にフェイスブックで友達になっていた鹿児島の方から父の話が出てびっくりしました。

なんでもその方の妹さんが、「松井」という姓と「郁夫」の「郁」という字を見て

知り合いの息子さんではないかと言っているというのです。

 

 

たしかに父は満州から引き上げて来た時にまっすぐ故郷に帰らず鹿児島にしばらく滞在していたと聞いていました。

また私の名前はその妹さんの母親の「郁子」の「郁」の字を取って付けたというのです。

なるほど私は小さい時から自分の名前が女性のようなだと感じていたので間違いありません。

そういえば私が幼い頃でうるおぼえですが鹿児島から若いお兄さんが家に来たことがありました。

たしか美術大学志望で「金沢美大」の受験に見えたと聞いています。

 

 

実はそのお兄さんが小さい頃に満州から引き上げるときに父がオンブして帰ってきた方だと分かりました。

父はまだ若かったので満鉄に勤めていた家族を先に引き上げ船に乗せて最後にそのご家族と一緒に帰ってきたようです。

今はそのお兄さんは80歳になっていましたが「多摩美術大学」を卒業された後は鹿児島で教員をされていたそうです。

たまたまその妹さんが私をフェイスブックで見つけて連絡してくれたのです。

 

 

本当に驚きましたが78年の歳月を超えて父の縁が繋がったのです。

まるで「ファミリーヒストリー」のような話ですが続きは次回にします。